Since August 25. 2003


9月 < 2004年10月 > 11月


■ 2004年10月31日(日) 楽しい帰国

20日間に及ぶ海外出張は、大いなる成果を得て無事に本日で終わり帰国します。いつものことながら、やれやれという安堵感と、社員やいくら可愛がっても、妻の方しか向かない猫(タマちゃん、それでも大好き!!)に会える楽しみで一杯ですが、今回はさらにもっと凄く帰国が楽しみです。


ただひたすら妻の帰りだけを待っているタマちゃん

孫の陸玖が家で待っているのです。わたしたちの孫はオランダで生まれました。娘のご主人がいわゆる駐在さんで彼らがアムステルダムで結婚式を挙げたのは4年前、そして1年8ヶ月前にわたしたちの初孫陸玖が誕生しました。普通、娘夫婦が外国にいればその子にはなかなか会えませんが、お蔭様でわたしたちの場合は、ヨーロッパに行くことが多いので、しょっちゅう会っています。

前回はリヒテンシュタインまで遊びに来てくれて会いました。7月の中ごろのことですから、3ヶ月ほど前です。でもこの時期の子供は成長が本当に早いですから、3ヶ月会わないと凄く成長しているはずですからとても楽しみです。


リヒテンシュタインで 手をつないで歩けるようになった

今回はご主人の弟さんが結婚されると言うことでの一時帰国ですが、娘は一月近く日本にいるので、しばらく孫と暮らせます。とても楽しみです。そろそろ言葉も喋る頃だろうし、爺を覚えていてくれるかなと心配したり、心はまだ子供のようだといつも思っている自分ですが、やはりもう完全に爺ちゃんなのですね。さあさっさと帰ろう!!


翌日は朝8時半から、営業担当プロデューサーのベッツィーさんと日本におけるプロモーションの計画の説明を受けた後、ウイリアム・アーンツさんのインタビューでのDVD撮りが1時間半ほど、ログハウスで行われました。私の名前とコンセプト・写真は映画に出ているものの、本人の姿は登場していないので、映画を見た人から、“彼はどんな人なんですか?”と言う問い合わせが沢山来ているようで、それに対してのDVDを作っておきたいと言うことのようです。

通訳には昨夜のセミナーでも通訳してくれた、邦人3世であるダイアンさんが、早朝にもかかわらず来てくれましたので、そのビデオ撮りは順調に進み、あっという間に出発の時間である10時半が来てしまいました。午後2時のロス行きの飛行機に乗らねばならなかったからです。途中で、ダイアンさんが目を輝かせて、“エクセレント!!ワンダフル!!”と何回も言っておられましたから、きっと上手に話せたのでしょう。出来上がりが楽しみです。


DVD撮りの様子
左からアーンツさん、ベッツィーさん、ダイアンさん

映画にも結婚式の神父役として登場した企画担当のパブロさんが、空港までわたしたちを送ってくださり、正味1日のウイリアム・アーンツ邸での滞在は終わりましたが、この短い間にわたしたちはますますお互いの理解を深め、運命共同体として、この映画の普及のために頑張ろうと誓い合いました。


シアトル空港でパブロさんと

アーンツさんは11月20日に日本に見えて、11月27日・28日のイベントに参加されスピーチを戴くことになっていますが、その前に日本の鄙びた田舎を少し旅したいとリクエストがありました。そして驚いたことに、長野県にある柏原と言う町に言ってみたいとおっしゃるのです。その町は彼の前世と関係があると言うことですが、私が調べたところ、そこは小林一茶の生地でありました。

“What The Bleep Do We Know!?” という、大袈裟に言えば人類文化史に大きな影響を与えるかもしれない映画を作った男と、日本の俳人小林一茶。一体全体どんな関係があるというのでしょうか!? アーンツさんが彼の地を訪れた後、私は彼にインタビューをしてみたいと思います。乞うご期待!!


シアトル空港から車で1時間半の森の中に、ウイリアム・アーンツさんのログハウスはありました。5年ほど前からここに一人で住まわれているそうで、映画製作の仲間もみな30分近辺の所にいて、どうやらここでいろいろな構想が練られたようです。庭には小さな日本調の池があり、しかも循環システムになっており、蓮の花が咲いたらさぞ綺麗であろうと思われます。


今度は機上よりロッキーの山並み


ウイリアムアーンツさんと


アーンツさんの家の庭

そこに初めてお会いする製作者グループの一人ベッツィーさんがご主人と生まれたばかりの赤ちゃんを連れてやってきました。ベッツィーさんはこの業界では古く、営業、配給関係を担当していると言うことで、日本で行われるイベントに際して、いろいろなアドバイスを戴きました。また日本での正式な公開は来春になるだろうとのことで、いよいよわが国にもあの映画がやってくるようです。

ベッツィーさんのご主人はスーパーマンの衣装で登場しましたが、ギターとロック調の歌がとても上手く、早速音楽家の瀬戸さんと気が合っての競演となりました。ところがこのご主人、キネシオロジーの治療家としての技術は高度のものがあり、カイロプラクター技術、経絡技術を結び付けての治療は少しだけ体験させていただきましたが、なかなかの物がありました。今度時間のあるときにじっくりと治療してもらいたいと思いました。


陽気なベッツイーさんのご主人

結果的にディナーの時には8人ぐらいの仲間が集まり、私たち4人と合わせて12人ほどで、私のために用意してくれた魚料理を楽しみました。それが終わったのが夜の8時、1週間前に急遽決まったラムサスクールでの講演会に全員で出掛けることとなりました。

その学校はアーンツさんのロッジからさらに30分ほど離れたイェルムという町にありました。夜道でしたので周りの状況は良く分かりませんでしたが、何故こんなところでセミナー?夜の8時半から?1000名も?(そのくらいの人が来ると聞いていたので)と言うような雰囲気の中を車は走っていったのです。

そしてその会場に入った時すでにそこには本当に1000人ぐらいの人がいました。しかもたいていの人が寝袋や毛布などに身を包んで横になっている人が殆どでした。巨大なホールというか体育館のような建物です。(後で聞いた話によれば、もと馬の調教場との事でした) 中央にステージのようなものがありそれを中心として3つの大きなスクリーンが用意されていました。

その状況を見てすぐに納得しました。アーそうか学校といっても、子供の学校ではなく、大人の合宿研修スクールを今やっているわけだ、と思いました。見れば日本人のような方も何人か見えます。後で関係者に聞いた話では、世界中からラムサの教えというコースを学びにやってきていると言うことでした。

Ramtha's School of Enlightenment(米国)…http://www.ramtha.com/
ラムサ古代の叡智の学校(日本)…http://www.ramtha.jp/

最初にウイリアム・アーンツさんとベッツィーさんがステージに上がりました。そのとたんに凄い歓声と拍手が上がりました。まるでグルーピーの歓声のようです。そして二人がなにかを言うたびに会場は大騒ぎです。二人はここではもうかなりの有名人のようです(ラムサのことを伝えるチャネラーがあの映画には出ているので、ラムサファンは皆あの映画を何度も見ているとのことです)。

そしていよいよ私が紹介されました。凄い歓声と拍手が巻き起こり、舞台に歩いてゆくまでにもうスタンディングオベーションが始まりました。もちろんこんなことは初めての経験です。しかも1000人もの大観衆、これは凄い舞台が用意されていました。“よし、今宵は徹底的に楽しもう”と決め、いつもより増してのオーバーアクション、パフォーマンスの連続で、私のレクチャーはスタートしました。まるでエルヴィス・プレスリーになったような気持ちの2時間半で、病み付きになりそうでいけません。私は本来真面目でシャイな日本人の平和のミッショナリーなのですから。


もちろん最後はスタンディングオべーションです。

アーンツさんのログハウスに戻ったのは、もう12時を回っていましたが、アーンツさんはそれから家の掃除、洗い物をされていました。大変な映画を作った人で、ニューエイジ系の人からは神様扱いにされているような感じでしたが、そんなことは何にも感じさせない、謙虚で飾らない人柄に私はますます彼が好きになりました。


■ 2004年10月29日(金)-1 シアトル(その1)「水の詩」のこと

翌日9時の飛行機でシアトルに向かいました。例の映画「わたしたちは一体何を知っていると言うの?」の製作者たちと会いに行くためです。ボスのウイリアム・アーンツさんのログハウスにお招きを受けて、最初は単なる親交を深めるためだけの目的だったのですが、色々な事が待っていました。

まずこれはこちらの事情だったのですが、シアトル空港で音楽家の瀬戸龍介さん夫妻と落ち合いました。出張中にかねてから11月27日のウオーターフォーライフ フェスティバルで発表できるような詩を作曲してくれるよう頼んでいたのですが、それが出来上がったという連絡を受け彼らの住まいがシアトルでしたので、そこでお会いしようと言うことになったのです。


写真は瀬戸さんご夫妻と

空港には映画のほうのスタッフの一人パブロさんも出迎えに来てくれましたので、二人を紹介し、瀬戸さんご夫妻の車でアーンツさんのログハウスに向かいました。ですからまず、瀬戸さんのほうのお話からしたいと思います。

半年ほど前に妻の姪の信子ちゃんの紹介で、米国に在住の音楽家が是非私に会いたいと言うことで、始めて瀬戸さんとお会いしました。その時は単なる表敬訪問を受けたと言う感じだったのですが、私のほうで感じるものがあり、前述したような内容の依頼をしたわけです。そしてその後私は彼にメールで次のように曲のイメージを伝えました。

水の詩のこと、是非進めて下さいね。
コンセプトとしては次のような感じのものでしょうか。

私たちは水です
でも、私たちは水のことをどれだけ知っているというのでしょうか
実はほとんど何も知りません
だから私たちは自分のことを何も知りません
例えば私たちは何処から来たのでしょう
何のためにここにいるのでしょう
そして死んだら何処に行くのでしょう
何も知りません

私たちは水です
水は実は宇宙から来ています
だから私たちも宇宙から来ているのです
この地球に愛と感謝を与えるために
その役割を終えたとき私たちはまた次の星に行きます
それを果たせないとき またここに踏みとどまり やり直ししなければなりません
愛と感謝の思いを持てるまで

私たちは水です
水をもっと理解しましょう
そうすれば 自分を理解できるようになります
水の好きな言葉 それは愛と感謝
そして調和と循環
水に愛と感謝の思いを伝えましょう
お水さん 愛しています
お水さん 感謝しています
お水さん 尊敬しています

とりあえず参考にしてください。 江本勝

瀬戸さんは、この僕のコンセプトをとてもよく理解アレンジしてくれて、シンガーの娘さんと共に歌う、素晴らしい歌を作ってくれたのです。「水の詩」は旅先の僕のところにメール送信で来ました。ブダペストにいたときのことです。その曲をコンピューターからダウンロードして聴いたとき、私は鳥肌が立つような感動を覚えました。

曲は、11月27日の当日皆さんにも歌唱指導させていただく予定です。英語の歌詞も作ってくれましたので、私はこの曲を持って世界中にこの歌を広めたいと思っています。

なお、下記が瀬戸さんが作ってくれたこの曲の日本語、及び英語の詩です。当日をお楽しみに。

「水の詩―WATER SONG」
作詞・作曲:Aman Ryusuke Seto
監修:江本勝

宇宙の彼方に 光る星
青い地球は 水の星
光の河を 越えて Milky Way
人は何故 地球に来たの?

どこから来て、どこへ行くの?
何の為に 生きて行くの?
All We Need Is Love !
All We Need Is A Thank You !
愛と感謝と人のハーモニー

もっと 水と 話してごらん
きっと 心が 透明になる
そっと やさしく 心の歌を
とどけてごらん 愛のメロディー

遠い空から 雨になって
地球に降る 愛の光り
All We Need Is Love !
All We Need Is A Thank You !
愛と感謝と人のハーモニー

宇宙の彼方に 光る星
青い地球は 水の星
All We Need Is Love !
All We Need Is A Thank You !
愛と感謝と人のハーモニー
愛と感謝と水のシンフォニー

 

「WATER SONG」
Music by Aman Ryusuke Seto
Word by Luvian Hanayo Seto

Far across the universe, this shinning star,
Silver Blue, water star, Our Earth beautiful!
Flying through the Milky Way, river of light,
I wonder why I am here, standing on this Earth.

Why do we breath this air? Where do we go from here?
Let us ask ourselves, the water in each of us.
All we need is Love
All we need is a Thank You.
I will give this simple gift
All one in Harmony.

Listen to the voice within, the water inside of us,
Rippling through our soul, dancing Crystal clear.

Sing to her, a melody with soft angel voice.
You can change anything, delivering Harmony.

Raindrops falling from the sky, Nature's greatest gift.
Bringing blueness to our Earth, with Light of Love.
All we need is Love
All we need is a Thank You.
I will give this simple gift
All One in Harmony.

We can all hold our hands, sharing light and harmony.
Embracing our hearts, with Light of Love.
All we need is Love
All we need is a Thank You.
I will give this simple gift
All One in Harmony.
I will give this simple gift
All One in Symphony.


10月11日私たちが日本を出発した時は息子はまだ日本にいて、私たちを車で成田に送ってくれました。その車中で私は息子に“10月27日にロスに着くので、翌日の28日に新会社のお披露目パーティーをやろう”と言いました。息子は“もう余り日もありませんが?”と言います。私は“うん、メール出して集まってくれる人だけで良いから。”と言いますと息子は“分かりました。”と素直に言いました。その口調は、それは良いアイデアだな、と言う感じでした。

それから私たちは東欧に出掛け、息子は会社の業務引継ぎや引越しの準備を慌しく済ませ、17日に日本を発って昨日でちょうど十日目となった訳で、パーティーを準備する時間は余りなかったと思うのですが、今日のパーティーには何と40名ほどのお客様が見えてくれたのです。遠くはダラス、セドナ、ポートランドそしてテネシーからもきてくれました。以前私のセミナーを主催してくれた人、これからしてくれる人。そして私の本を売ってくれている人等です。中にはファンの人も何人かいらっしゃいました。短い準備期間それも会費制であったのにもかかわらず、本当に良くきてくれました。


江本家族とアラン・ルービック家族
(奥様は臨月なのに来てくれました。
左から2人目がジェイミーです)


ミランダさん、ウィスパー(ワンちゃん)、
シンシアさん(出版社社長)
新しい本を現在企画中です。


御なじみサンフランシスコの鯉沼さん。
娘さんがロスにいてそのお産のお手伝いに
丁度来ておられました。


お客様なのにいつもの名通訳を快くやってくれた 加藤さん


日本にも来てくれたことのある友達 ダラスのラルフさん


最初の頃から水伝を扱ってくれている
ソースブックの社長さん


ダラスから見えたフェリシア夫妻よき協力者です


セドナから、サンジェゴから
ラジオのパーソナリティーやドクターの方々


Dr. ショー先生とその秘書。
ショー先生は早速NPOにご理解いただき
ドネーションを戴きました。記念すべき第1号です。
しかしそのせいで笑っているのでは有りません

しかしなんと言っても一番遠くから来た人は、日本からわざわざこの日の1日だけのために来た山田さんでした。成田を28日の夕方に出て、同日の朝ロスに到着、夕方のパーティーに出席して29日のお昼の飛行機で帰国、日本には30日の午後帰るという、それこそ1泊3日の凄いスケジュールで来てくれたのです。何でも山田さんはお勤めの会社の経理責任者で、月末である31日には、どうしても戻っていなければならなかったのだそうです。息子も良い友人を持ったものです。


ロサンゼルス空港に着いた山田さん

和気藹々と楽しい雰囲気の中で行われたパーティーでした。来場者の方からいろいろとスピーチを下さり若い二人(息子と嫁)を励ましてくれました。名前だけの社長である妻も楽しそうに皆さんと歓談をしており、夫として父としてまた一つ、家族のために良い仕事をしたと言う思いが湧いてまいりました。

そんな中で博正がポジティブな事業計画を、忙しい中いつ用意していたのか作成してあって、それをスライドで皆さんに提示しプレゼンテーションを行ったことに大変びっくりし、ほほう、だいぶ成長し、やる気になっているなと、父親として嬉しく思いました。また嫁さんのジェイミー君も皆さんにご挨拶し、その中味は殆どが私への感謝の思い、つまり憧れのアメリカで新家庭を持つ機会を与えてくれたことへの感謝の思いでありましたので、これまた嬉しく思い、妻とにっこり目を配せあったのでした。


息子の決意表明の後の親子の固い握手


早速新オフィスに来客です。


■ 2004年10月28日(木)-1 ロサンゼルス、息子の家へ

27日の午後フランクフルトを発って、11時間半のフライトの後、ロサンゼルスに着いたのは同日の午後4時でした。もちろん時差の関係ですが、この時差について私は余り気にしないようにしています。だから私の時計はいつも日本時間で、朝早く目が覚めようが、昼間眠くなろうが一切構わず、寝る時は寝る、おきる時はおきると言う主義です。そうでなければ絶対にやっておられません。

飛行場には息子夫婦が迎えに来ています。博正という息子は今年28歳になる、私から見ればまだまだ洟垂れ小僧ですが、昨年フィリピン女性と恋におちいり、そのままあれよあれよと言う間に結婚してしまいました。もともと高校を出て自分の進路をどう決めてよいか分からないでいた時に、私の勧めでカリフォルニアに語学研修ということで行きました。当時長女がカリフォルニア州立大学ノースリッジ校に在籍していて、世間知らずのあまちゃんの息子を出しても、面倒見てくれると思ったからです。

その狙いはぴたりと的中して、長女が両親代わりの役をしてくれて(あるいはそれ以上の)、姉がオランダに行ってしまった後も息子はぐれることも無く、都合6年ほどはかかったものの、何とか短大を卒業し、地元の旅行代理店に就職もしたのでした。つまり英語もそこそこに話せるようになっていたのです。

ところが、例の9・11の事件で日本からの旅行客が半減することになって、息子は自らの意思で、日本に帰ってきて、私の会社で働くようになりました。調度今から3年ほど前のことです。そして2年ほど真面目に働いてくれて、親の私も、こいつなかなかやる気だなと思い始めた頃、ひょんなことから異国の女性と恋に落ちてしまって、魂は完全にそっちに行ってしまい、挙句の果てに、“僕ら結婚しました”という始末です。

しぶしぶ私もマニラまで行って向こうの家族にもご挨拶をしてきましたが、内心は面白くありません。昨年の11月から日本で一緒に住み始めだしましたが、ジェイミーと言う嫁さんは英語は達者なのですが日本語はあまり上達せず、どうも心配で仕様がありません。日本社会はまだまだ外国人に対して、特に東南アジアの人に対しては閉鎖的かつ差別的だからです。

そんな中で例の映画のアメリカでのブレイクがあり、私の本もベストセラーとなって、俄然アメリカでのビジネス拠点の必要性が浮上してきました。それは、今年の4月から5月にかけての13に及ぶ都市でのセミナーツアーの最中でした。私と妻は話し合って息子たちの将来のために、彼らをアメリカに永住させるようなつもりで、現地に会社を作ってあげようと相談し決めたのです。

9月にアメリカに来た時私たちは会社の設立の事務手続きをし、住まい兼事務所の家も見つけ契約し、その会社の名を波動パブリッシングUSAとしたのです。息子たちは一度日本に戻り、10月の半ばに正式に引越しをし、今回わたしたちを空港に迎えに来たというわけです。

新しい家で息子たち夫婦と初めて一緒に過ごした私は、なぜかくつろげました。ホテルよりもとても落ち着けて休むことが出来たのです。たとえ一晩でももうそこは私たちにとって、家族と共にある家なのですね。


■ 2004年10月27日(水) 波動ライフヨーロッパ

ハンガリーからフランクフルト経由でチューリッヒへ飛びました。僕のように頻繁に海外出張が多いものにとっては、いわゆるマイレージと言うものがとても大事です。当然ハンガリーの首都であるブカレストから、スイスの首都であるチューリッヒへは、スイス航空あるいはハンガリー航空を使えば直行便があるのでしょうが、僕の使っている飛行機会社グループは全日空を基点とするスターアライアンス・グループで、ヨーロッパ内はほとんどルフトハンザ航空を使っての移動となるわけです。


妻は前の写真を褒めたらまたアルプスの写真を撮ってくれました

同じスターアライアンスに加盟している飛行機会社を使えば、マイレージが共通で加算され、5回に1回ぐらいはフライトが只になるという特典があるから、これはよほどのことがない限り、他のグループに属している飛行機会社を使うことはありません。マイレージのみならず、料金も割引があってそれぞれの行程でグループフライトを無視して直行便だけを使えば、2倍ぐらいの料金となってしまいます。

これが良いシステムであるのかどうなのか、今もって分かりませんが、現行ではこのシステムを使わざるを得ません(やはり資本主義の競争の原理の中におけるシステムであるとは思います)。ちなみにスターアライアンス・グループとは、ルフトハンザ、ユナイテッド、スカンジナビア、シンガポール、タイ、ビーエムアイ、ヴァリッグなどを中心とした飛行機会社で形成されていますので、世界のどこに行くのにも、さほどの不自由はありません。

チューリッヒ空港には、波動ライフヨーロッパのラスモス君、副社長の尾竹明宏君、そして私の影の司令塔である佐藤正哉君たちが出迎えてくれていました。なぜ佐藤君が影の司令塔と言うのかはいずれ明らかにする予定ですが、今回で彼はリヒテンシュタインには2回目、結果として彼が行くところ、皆幸せになる傾向があります。

研究所までは1時間半の道のりで、3人はかなり訳の分からない英語で互いに結構通じ合っており、楽しい雰囲気のなか人間関係もとても良くなってきたようです。これも佐藤君がいるおかげで、彼は実に不思議なパワーを持った人物です。途中余りにも雰囲気が良いので、私は予定を変更して、いつか行ったことのあるボーデン湖畔の日本料理、これまた「冨士」と言う名前のレストランに行って夕食をとることにしました。写真がそのときの模様です。


右奥が尾竹副社長 手前がラスモス
左手前が忍者正哉くん

翌日、研究所には北ドイツから雪子さんが来てくれていて、スタッフがそろいました。そして次から次へと来客で私は休む間もありません。まず、ドイツでは超有名な歌手ネーナ(Nena)さんのマネージャーをしているXさんが仲間のYさんを連れて、ヨーロッパでは初めてとなるアクアインストラクター講習会受講のために予定通り来所されました。前回のベルリンセミナーの時に初めてお会いし、結晶を使っての宝石デザインをされたいということで、アクアインストラクターを勧めたところ応募されたのです。

初めての雪子さんのドイツ語による通訳で、合計6時間ほどの講習会は無事終了し、ヨーロッパに初めてのアクアインストラクターが誕生しました。残念ながら、その時カメラを持ってくるのを忘れてしまって、記念すべき写真が撮れませんでしたが、お二人についてはまた本欄においてご紹介したいと思っています。

夕方7時からはウイーンから、例のブリジッタさんがローマン・ストーム(Roman Storm)さんと共にまた見えてくださり、ホテルの側のレストランで食事をしながら WATER FOR LIFE FOUNDATION についての真剣な話し合いをし、彼女たちがウイーンで、私たちと同じ趣旨におけるNPOを立ち上げると言うことで意見の一致を見ました。いよいよこの運動も、本格的に始動し始めた感があります。

翌日は、ミュンヘンからコーハ出版のコンラッドさんが、次の出版物についての提案があると言うことでお見えになりました。とても良い話でしたので私は即座に同意し、仮契約を済ませました。周りの支援者が、私がいちいち考えなくとも、次から次へと前向きな案を出してくださるようになり、経済的にも余り心配することがなくなってくるように思います。うれしいことです。

わずか正味2日間の滞在でしたが、なかなか実りのある結果を得て、リヒテンシュタインの波動ライフヨーロッパもようやく順調に滑り出したようです。あ、そうそう、もう一つ報告しなければなりません。アレス君というスロベニアから研修に来ていた青年の結晶写真撮影結果が出て、尾竹副社長が彼を社員として迎え入れることとなりました。彼のことについてはまたの機会に紹介するとして、ますます研究所は充実してまいりました。ところで僕は、明日は何と、ロサンゼルス行きの便に乗らなければなりません。さすがに、クレージー!!ですね。


■ 2004年10月23日(土) ブダペスト・セミナー

ハンガリー語版はこの3月に出版されましたが、まだセミナーは一度も開いたことがありませんでした。僕の本を出版してくれたヤカブさんという方は本業は健康食品の会社を経営されている方で、出版事業が専門の方ではありませんでしたが、「水からの伝言」に大変感動されて、出版を強く希望、実現したものです。


ブダペスト・セミナー主催者のヤカブさん夫妻
と富永美知代さん

私はその3月にハンガリーを訪れ始めてヤカブさんとお会いしました。今年48歳になる男盛り、経営者としてもなかなか有能な方のようで、経営する健康食品会社では、日本でもひところ流行った紅茶キノコを中心にして、いろいろな健康食品を扱っておられ、東南アジアや北米とも取引をされています。この分野ではハンガリーでトップクラスの企業のようです。

彼は自分でも形態科学関係の立派な著書を出されていて、結晶の6角形の意味することに大変興味を感じて、本を出版したと言うことで、単なる実業家ではなく、同時に神秘科学の研究者でもありました。ですから、3月にお会いした時点で、ハンガリーに結晶撮影研究所を作りたいと熱く語っておられました。そして7月25日のリヒテンシュタインの私のセミナーとセレモニーにも、ブダペストから車で10時間もかけて来てくれたのです。

そんな彼ですから、今日のセミナーは周到に用意されていて、朝からまるで波動シンポジウムのような企画が用意されていました。会場も駅前の、それほど大きなスペースではありませんでしたが、催し物が出来る一等地です。講師の方が私を入れて6名。会場のほかのフロアーには展示ブースが賑やかに並び、沢山の人がいろいろな医療やリラックス技術を体験したりしている様は日本と同じです。

10時から開場し、私は1番バッターの講師として10時半からの出番でしたが、その頃は収拾がつかないくらいに人で溢れ、400人席の会場に600人ほどの人が入り(したがって、立ち見や座り見の方が多かった)、さらに100人ほどが隣室のモニターテレビの前で聞くと言う状況となってしまいました。それでも私のセミナーだけを聞きに来た人で入れなかった人が、相当数おられたようです。先進国のセミナーホールでは考えられないような状況でした。

それにしてもポーランド、ルーマニア、ハンガリーと私にとっては遠かった東欧の国々で、どこも超満員のお客様が来てくれてどこもスタンディングオベーションで讃えてくれた、この結晶技術と水からの伝言は本当に普遍的なエネルギーを持っているのだなと、改めて考えさせられた今回の旅でした。


満杯のお客様から長ーいスタンディングオべーションを頂いた。


お!!サッポロラーメンがある、
と思わず思ったら地ビールでした。
打ち上げの行われたレストランの前で

追 記

ヤカブさんは奥様と通訳の方を連れて、11月27日、28日のイベントにも参加されます。そしてその後当社の研究所で1週間かけて研修をされると言う凄い意気込みです。新しい3階建ての水の研究所の建物を自宅の側にすでに建築中で、やる気満々です。会場でお見かけしたら、気軽に声を掛けて激励してやってください。また、ハンガリー語を少しでもお話できる方で、美しい奥様の東京見物のご案内をしてくれるボランティアの方がおられましたら、是非ご一報下さい。


■ 2004年10月22日(金) 日本食と日本女性

旅先で困ること、それはなんと言っても食事です。特に私の場合は好き嫌いが多く、しかもそれも半端ではありません(昔から好き嫌いがひどい人は、人格円満ではないと言いますが?)。ミルク味、バター味、チーズ味、クリーム味がだめなのです。肉も鶏肉はOKですが、他のものは駄目です。ですから欧米では、ほんとに困ります。目的地に着いたら、いつも日本食レストランがあるかどうか、地元の人に聞きます。なければ、トマト味のパスタか、フライドチキンとポテトフライ、当然余り体に良くありません。それもない時は中華料理、これだけは世界中どこに行ってもあります。恐るべし、華僑パワーです。

しかし今回ブダペストでは最高の食事が待っていました。何と月刊「波動」の海外読者の方が市内で立派な日本食レストランを経営されており、そこに2回もご招待されたのです。日本食レストラン「冨士」を経営されているその方の名前は、サーライ東口美登里さんと言い、素晴らしい生き方をされている方でした。

このハンガリーに単身ロマンを求めて(故郷を捨てて?)来られたのは何と25年前の事だそうです。ハンガリーは当時社会主義体制下にあり、いろいろと規制が強かった時期でしたが、お嬢さん育ちであったと言う美登里さんは、その歴史の揺れ動く波の中で、その後立派に二人の子供さんを育てられ、事業にも成功されて、今では日本コーポレーションと言う会社の社長さんで手広く経営をされ成功されているのです。

その一つに、月刊情報誌「パブリカ通信」の発行があります(下の写真)。これはハンガリー発日本語情報誌でハンガリーのことがいろいろと紹介されている一方、遠く離れていても何時までも美しい日本人の心と伝統を忘れまいとする美登里さんの思いが感じられる情報誌です。ハンガリー国内の希望者には無料で配られていますから、事業と言うより啓蒙活動といえるでしょう。今月号がVOL118と成っていますから、もう10年も続けられていることになります。立派なことです。


月刊情報誌「パブリカ通信」

海外を長く回るようになって、いろいろと思うことが出てきましたが、その中で一番凄いことだなと思うのは、海外におられる日本女性の素晴らしさです。あれ、こんな所にもいるの?と思うほど考えられないような田舎や国にも、日本女性がちゃんと結婚して、お母さん役と、奥様役とそして、経済的にも大黒柱となって、旅行ガイドや通訳をやって、八面六臂の活躍をされているのです。

この件については、いずれ1冊の本にまとめて皆様にご紹介しようと思うぐらい沢山の日本女性が海外で頑張っています。私の感じでは、まるで先遣隊と言う感じで、後に続く、日本人男児を待っているようにも思います。ですから海外志向の中年の方、言葉のことは全く心配ありません。あなたが行きたい外国に迷わず出掛けましょう。するとそこにどこからともなく先遣隊とも思われる日本人女性が現れて貴方を助けてくれます。もし貴方のお仕事が彼女の眼鏡にかなえばの話ですが。

あ、そうそう、美登里さんのレストランの日本食、最高でした。きっとこれから何回もブダペストに行く事になるでしょう。


■ 2004年10月21日(木) ブダペスト・水に祈る集会

フィレンツェからミュンヘン経由ブダペストへの空路はアルプス越えがあります。機内から妻が眼下に拡がる新雪を被った山並みの写真を撮りました。ご覧のようになかなか良く撮れています。


機上から撮った美しいアルプスの山並み

僕の旅にいつも随行してくれる妻の役割は、荷物を運ぶ、そのパッキング、下着類の洗濯、僕の体調管理、セミナーの時のスライド係、金銭管理、マネージャー業務、そして写真撮影係と、それこそ八面六臂の大活躍で、彼女がいなかったらこのようなセミナー・ツアーはとても考えられません。

二人の世界弥次喜多道中は、もうかれこれ5年になろうとしていますから、もう慣れたものです、と言いたいところですが、これがハプニングの連続で、なかなかスリリングな旅が続いています。ですからこの旅を通じてまた新しい夫婦の関係を見直しているともいえるし、高めあっているとも言えます。何しろ、全く24時間引っ付いている訳ですから、いつも見、考えるのは相手のことばかり、互いに磨きあっていると言えるのでしょう。

さて、23日のセミナーの本番を前にして、今日はドナウ川船上セミナーと中州のマルギット島での祈りのセレモニーに参加しました。これは今回私を招いてくれたヤカブさんとは違うグループの主催で、総勢で150名ほどのグループ、半分以上が国外の人の国際的集会でした。私の役割はドナウ川観光船の中でのショートセミナー、私が英語で喋りそれを主催者の女性の方がハンガリー語に通訳すると言うやり方で、とてもうまくいきました。


ドナウ川の向こうは国会議事堂

ただし船は思ったほど大きくなかったので、船内は150名の人でぎっしり、小さなスクリーンの向こう側に座り込んで、逆バージョンのスライドを見なければならない人が20人ほど出てしまいました。しかし、それだけにいろいろな国の人達が呉越同舟と言う形で交わって、なかなか良い雰囲気の中でセミナーをすることが出来、楽しゅうございました。

それが終わって皆で船を中州のマルギット島で降りて、そこで祈りのセレモニーです。この道に慣れた精神世界系のリーダーのような人が居合わせていたようで、的確に素晴らしい響きのある声で皆さんに語り掛け、瞑想を指導されたりしておられましたが、なかなか美しい気分に浸ることが出来、私も充分に楽しませていただきました。


船上セミナーのあと、マルギット島でのセレモニー風景

そして夕方は近くの大学の集会場を借りての懇親会が予定されていました。そこでまた私には楽しい役割が待っていました。歌を歌うことになっていたのです。

実は私は3月にもハンガリーに来ています。そのときにはセミナーはありませんでしたが、私はもちろんハンガリー語は駄目で私を招いてくれたヤカブさんも英語が駄目でしたから、彼は日本語ハンガリー語の通訳の方を用意してくれていました。その方が北海道札幌出身の富永美知代さんという方で、彼女は15年ほど前に声楽の勉強のためハンガリーに留学、その後ピアニストである素敵なご主人と結婚され、3人の子供さんを儲けられました。


通訳をしてくれた富永さん家族 双子の坊やがいる

その美知代さんと私はそのとき音楽談義で盛り上がり、次回ハンガリーに来た時は、二人で何か歌を歌いましょうよと言うことになっていたのでしたが、その約束を美知代さんが覚えていて、その段取りが取られていたのです。私も覚悟を決めて歌うこととしましたが、これがなかなか大変でした。最初の合唱“花”は私が低音部で彼女が高音部でとても良くハーモニーし、良かったのです。問題はそれぞれの独唱の時です。美知代さんが選んだ歌は“マダム・バタフライ”でその時から、いやな予感がしました。そしてその予感は正しかったのです。

もう声楽はやめていると聴いていましたから、ちょっと安心していたのですが、とんでもない、めちゃ凄い声だったのです。美しいソプラノの音は大学の悪い響きの設計など物ともせず、リンリンと校舎一杯に、或いはそれを突き抜けるばかりに響き渡っていったのです。“あー、先に歌っておけば良かった”と思っても後の祭り、私は腹を決めてカンツオーネ“帰れソレントへ”を静かな調子で歌い始めました。この際出来るだけ感情を込めて歌うようにしようとだけ心がけて、ゆったりと歌いました。

結果として自分でも良く歌えたと思いました。美知代さんには負けましたが拍手も沢山頂きました。“あなた、良かったわよ、素敵だったわ”と妻も言ってくれました。良かった!!でもこれでまた癖になりそうで、講演時間の調整がますます難しくなりそうです。

モンテカティーニは、フィレンツェから車で1時間足らずの療養地です。日本で言えば温泉療法の町と言うところでしょうか。しかし実際に行ってみて分かったことですが、日本の温泉地よりもっと真面目な療養地です。すなわち品があり、医療施設をも兼ね備え、町全体がイタリアのいろいろな建築様式を取り入れて、良い雰囲気を作っています。


イベントはこの宮殿のような水療法センターで行われました。


何故か庭にあったイノシシの像
ちなみに妻はイノシシ年

温泉と言っても、お湯につかるわけではなく、豊富に出てくる水を飲用することによって体の中を洗い清めると言う療法で、実際に肝臓障害・消化器障害の方にはとても良い効果が出ているとのことです。朝必ず朝食の前に、お医者様の指導により高濃度、中濃度、少濃度の水のいずれかを飲み、トイレに駆け込むと言う療法で、なんと施設内には520ものトイレがあるということです。

この町にはいわゆる源泉が7箇所あり、100年ほど前から人々がその水飲み効果を聞きつけて訪れるようになりました。やがて町全体がいわゆる温泉街のようになって、ヨーロッパ中の人が来るようになったということなのです。したがってこの町にとっては、水が情報を持つと言うことは、町としての生命線でもあるわけで、私がその町のイベント「水と文化」の一環として行われたセミナーに呼ばれたことは、ある意味では当然のことだった訳です。

当初このセミナーは、町の1週間続くイベント中の23日に行われる予定でした。しかし私の事を知ったプランナーのラファエラさんが、どうしても私を呼びたいということで、いろいろとコンタクトを図ったようですが、結果的にすぐには連絡が取れずに、以前日本で一緒に仕事をした事のある迫村裕子さんに頼んで、彼女を通じて私に連絡がついたのは、2ヶ月前のことでした。


右が今回のイベントのプランナーのラファエラさん
左はその日本側のエイジェント迫村さん

しかし、その時にはすでに私は、この期間モスクワに行くようになっていましたので、このお誘いを受けることが出来ませんでした。ところがその直後に例の恐ろしい小学校人質事件が起こり、私はこの件にかなり怒り、ショックを感じたものですから、そちらをキャンセルし、18日か19日ならイタリアに来ることが出来ると連絡したところ、ラファエルさんは大喜びして、他にもプレゼンテーターがいるのにもかかわらず、セミナーの日を今日19日に変更してくれたのです。

町の市長さんや、商工会議所の偉い人、地元の大学教授やお医者さんが出席してのそのセミナーは、しかし私にとっては今一の出来でした。司会者にわざわざミラノからプロの女優と言うかタレントを呼んでいたのですが、その彼女との波長が全く合わず、うまく話の波に乗れませんでした。まだまだ「水は方円の器に自分を合わす」と言うわけには行かないようで、反省しているしだいです。


モンティアーニ市長とともに


「水は答えを知っている」のイタリア語版出版社社長と翻訳者


■ 2004年10月15日(金)・16日(土) ルーマニア・ブカレスト・セミナー

ルーマニアは初めて訪れた国でいろいろと感じるところがありました。まず私を招いてくれたところは、ミサと言うヨガの団体でしたが、これがなかなか良くできた組織で、会員が35000人もいるとのことです。共産主義時代の古い寮を自分たちの手作業で4年かけて改築し、600名ぐらい収容できる一見だだっ広く見える道場兼講堂を備えた6階建ての大きな建物を所有しています。デンマークやチェコ、フランス、イタリアなどに支部を持つと言うことですから、この国でのこの種の団体としては、かなりパワーを持っているようです。

ところがこの団体、政府から睨まれていると言うことが、最初に行われたマスコミ相手の記者会見及びセミナーを体験して分かりました。日本で言えば、永田町界隈の高級ホテル(ホテル・マリオット)のようなところで行われた記者会見には、多数のテレビ局、新聞、雑誌社のカメラマンや記者たちが来ていて、最初は大変ポジティブな質問が続き、良い気持ちでしたが、そのうちおかしなムードになり、今度は逆にネガティブな質問が続き始めたのです。


写真は記者会見に詰め掛けたテレビ関係

それらの質問に対しては、引き続き行われる私のセミナーにおいて全て答えが出ているので、それに出席してくださいと、取り合いませんでした。明らかに恥をかかせてやろうという意図が丸見えで、これは真剣に相手してはいけないと思ったからです。そしてそれは正解でした。彼らの中にはミサなるものを叩き潰せと言うような指令をその筋から貰っているメディアが入っていたのです。

つまり、中国における法輪功のような団体と、ミサは上のほうから見なされていて、何かとあら捜しを、彼らはしている。逆にミサの方は、自分たちがやっているヨガ思想や健康法はけして非科学的なものではなくて、このように今や世界的に有名となった科学者(?)ドクター江本の論理と同じことなんだ、と言うことを、彼らにアピールしようとしたわけです。

例のチャウシェスク政権が市民革命によって倒されてからもう15年になるそうですが、いまだにこの国は共産主義時代の暗い影を引きずっているようで、それは何故このように豊かな国土と水に恵まれた国の平均賃金が、数百ドルでしかないのか、などの矛盾に繋がっているようです。


チャウセスク時代に作られた国会議事堂
世界で2番目の巨大建物

翌日の土曜日は夕方から彼らの本部でのセミナーでした。町の中心から30分ほどのところにあるその建物は、日本で言えば雇用促進住宅のような大きな6階建ての建物で、エレベーターはなく、おまけにセミナーホールは最上階にありましたので、脚を弱めている私には大変でしたが、妻に支えられて何とか6階まで行くとびっくりです。大きな体育館のようなフローリングのところに椅子がぎっしりと並べられていて、その数は軽く500を超えている感じで、かつまだ充分にスペースが見受けられるのです。普段は会員のヨガの修練道場として使われているようで、床もピカピカに磨かれていました。

最初はスタッフの10人ほどがいるだけでしたが、時間になるとどこからともなく人が沢山出てきて、あっというまに500余りあった椅子は埋まり、凄いエネルギーが広い道場を覆いました。そして其処に並んだ顔を見てゆくと、若い人が多いこと、しかも美男美女が多いことに気がつきました。日本を出る時息子が、“父ちゃん、ルーマニアは美人が多いところらしいよ”と言っていましたが、まさにそのとおりでした。

結果的に私はその日3時間も自分のセミナーを楽しみました。私の前に30分ほどニコライさんと言う会長さんが話をして、それを私は通訳さんを通して聞いていましたので、この団体の人達には何を話してもOKだなとすぐに分かりました。ですから普段ほかのところでは話せないような私の宇宙観を、心置きなく話すことが出来て、しかもそれをとても理解し、喜んでいただいて、随所に笑いや拍手を頂いたものですから、もう本当に楽しゅうございました。


指導者のニコライさん

きっとこの団体とはこれからも長いお付き合いをすることになるのではないかと思います。なにか、とても可能性を秘めた若者集団と言うように、私には見受けられました。


■ 2004年10月14日(金) 悲しい知らせ

今日、ヨーロッパの親友ジョルジョさんから悲しいメールが入りました。水が情報を持つと言うことを世界で初めて科学的に研究し発表したジャック・ベンベニストさんが、10月3日(日)にパリの病院で亡くなったと言う知らせでした。まだ69歳だったということです。

彼はパリ大学で教鞭をとっていた時、水が記憶を持つという研究を続け、1988年イギリスの権威ある科学雑誌「ネイチャー」に発表しました。ネイチャーと言えば科学誌の最高峰と言われ、世界中の科学者はその論文がこれに載ることを夢見て研究を続けていると言ってもよいほど、権威のあるものです。

私が本格的に水のことを実践的に関わり始めたのが、その前の年の87年でしたから、私にとっては雲の上のような大先輩で、そのような論文があった事も知りませんでした。しかしその後僚友のリー・ロレンツェンなどから聞いた話を纏めると、ベンベニスト先生は、科学者として栄光の道を歩むはずだったこの論文の発表によって、逆にその道を閉ざされてしまったと言うことになってしまったのです。

と言うのは、華々しく発表された先生の論文は世界の科学者から手ひどいブーイングを受け、その論文を採用したネイチャーの編集長までもが非難を浴びる羽目となってしまったのです。私にはどうしてそのようなことになってしまったかは、その論文も拝見しましたが、余りにも専門的で難しく、分かりませんでしたが、とにかく当時の科学者は、水が情報を記憶し運ぶなどと言うことは、皆で寄ってたかって、ありえない事にしようと手を組んだ感があります。

その後先生は、大学の教授の仕事までもなくし、失意の中で細々と研究活動を続けてゆくのですが、5年前に発表された私の「水からの伝言」によって、再び注目を浴び始め、スイスのルツェルンで行われた、第2回ウォーター・シンポジウムではゲスト講師として招聘され、元気にその姿を皆の前に現したのです。

その時私も講師として招かれていましたので、初めて先生にお目にかかり、ルツェルン湖で行われた船上パーティーでご一緒し祝杯をあげ、共に今後水のために頑張ってゆこうと誓い合ったのです。

そして何とつい2ヶ月ほど前私は先生からメールを頂いたのです。それはその後の研究環境があまり良くなく、ついては何か援助の方法を考えて欲しいと言う内容でした。私は丁度NPO法人「国際生命の水財団」の設立宣言をしたところでしたから、それを伝え、そのNPOが立ち上がる来年の春まで何とか頑張って待っていて欲しいと、返事しました。

その矢先の悲報でしたから、とてもショックです。聞くところに寄れば、2度もノーベル賞候補にノミネートされたこともあるようです。水という人類にとって大事なものの研究がいかに遅れているかは、かねてより、本や講演会で述べてきているわけですが、水の科学的研究では第一人者であった方がこのように失意のまま世を去らなければならないところに、まだまだ人類社会の未熟さが歴然として残っていると言わざるを得ません。

何とかしてベンベニスト先生の遺志をついで、水研究のための基金財団を作り、優秀な水の研究者を援助していけるようにしたいと、その御霊に手を合わせつつ、ここにお誓いするものです。


■ 2004年10月13日(水) ショパンの生家訪問

今日は久しぶりのオフでした(日本も含めて)。出版社の社長のクリストファーさんが私たちをショパンの生家にまで連れて行ってくれました。ワルシャワから車で1時間ぐらいのところにそれはありましたが、途中の道路や車のスピードの出し方、運転の仕方を体験して、まだまだこの国は発展途上国だなと感じました。いろいろな国を回っていますが、その国の文化や経済の進展度は、道路と車の運転で一目瞭然です。


出版社の社長のクリストファーさんとともに


ポーランド人の夫を持つ伊藤貴子さんと妻。
伊藤さんは、 クリストファーさんのご近所の方で、
私たちのために連れてきてくれました。

私は大変な音楽好きで、モーツァルトや、ベートーベンのお家にはもう行ったことがあります。ですから今日のショパンの家も、私が是非にと希望したもので、これで私の好きな三大音楽家の家を回ったことになり、次の目標はイタリアの音楽家となるでしょう。

ショパンの家はまるで日本人によって守られているようでした。部屋のあちこちには日本語で書かれた説明書があり、テープによるガイドも、ショパン協会所属の方が立派な日本語で私たちの立ち寄る先のお部屋で、スピーカーを通じて説明をしていました。

最初の日に、市内の高いビルの展望台から、そして今日実際に郊外を1時間ほど車で走ったわけですが、その感想を申し上げます。この国は、凄い可能性があるということをまず感じました。とにかく駄々広く、それはどこまでも平らに続いており、川も豊富です。11月頃から厳しい冬を迎えると言うことですが、農業をやることには何の支障もありません。

コミュニストが統治した国の欠陥が今もなお色濃く残っているようですが、これからの地球で一番必要なことは農業だと思います。日本の食品メーカーがどんどん出てきて、優秀な技術力と人材力をこの地に振りまいていただければ、お互いに大きく救われるのではないかと、感じた次第です。


■ 2004年10月12日(火) ワルシャワ・セミナー

1年余りの時を要しましたが、ポーランド語版が今日出来ました(以下の写真参照)。そのための応援セミナーと言う認識で、ワルシャワに来ましたが、実はそうではありませんでした。市内の文化センターのような建物の中の講堂で行われた、私のセミナーは、「水からの伝言」を出した出版社主催ではなく、NIEZNANY SWIAT(知られざる世界)というエソティックな科学雑誌を出版している雑誌社の主催だったのです。この雑誌は、日本で言えば学研さんの月刊誌「ムー」のようなもので、1983年に出版され、10万部の発行部数を誇っている、この分野では圧倒的に他をリードしている雑誌だそうです。


ポーランド語版の「水からの伝言」

実は私が3月にワルシャワに来て関係者だけを対象にしたセミナーを行った時、この雑誌社の編集長が来ていてインタビューを受けました。その時のその編集長は大変感動をされたようで、今日に至るまである形を作られ、準備されていたのです。その形とは、私に今年で9回目になるという「知られざる世界 サイエンティスト・オブ・ザ・イヤー」と言う賞を授与することでした。


頂いた賞状

会場は、その雑誌の読者で一杯の人で埋まり、立ち見の人もでて、入れない人もだいぶいたようです。300人ぐらいの定員で400人ぐらい入ったのではないでしょうか。立派なディプロマットが用意されていて、それをポーランドでは有名な俳優さんが読み上げてくれて渡してくれました。

その後行われた私のセミナーも真に気持ちよく進み、終わった後は全員からスタンディング・オベーションを頂き、そしてその後、熱心な質疑応答が30分以上続きました。その内容がとても高度なものがありましたので、後で聞いたところ、大学の先生や、民間の研究者、科学関係のジャーナリストがかなり見えていたようです。


ワルシャワでのスタンディング・オベーション

ポーランドと言えばあのコペルニクスや、キュリー夫人を生んだところですから、かなり革命的な科学の土壌があるところなのでしょう。そのような国から、私にとって初めてのプライズがいただけたことを私は素直に喜びました。そしてご覧のように、その科学雑誌は私の技術の紹介を8ページにわたって特集してくださり、ポーランドの市民に大きく訴えてくださりました。会場にはテレビ局も最初から最後までいて取材をしてくれていましたし、翌日には具体的に子供のための特別番組制作について、女性プロデューさんからも提案がありました。


科学雑誌「NIEZNANY SWIAT」の特集記事

お蔭様で「水からの伝言」のポーランド語版も大好評でサインをした右手が今もだるい感じです。


■ 2004年10月11日(月) 東ヨーロッパへ出発

9日(土)もソアーズさんの山口さんたちが会社に訪ねてきて、11月のイベントの打ち合わせ、10日の日曜日はIHMデザインの望月君が自宅にまで押しかけてきての「水伝3」の改訂版の打ち合わせです。また学研さんの原稿依頼が急に入り、これを13日までに欲しいと言う。日本時間の13日と言えばワルシャワでセミナーの真っ最中、インターネット事情もどうなるか分からないので、これは何とかして、今日までに仕上げなければならないと言うことで、10日の朝、今日の朝と3時におきて原稿を書き、何とか仕上げました。実は10月1日にヨーロッパから帰って以来、今回はどうしたわけか時差ぼけが消えず、睡眠を良くとることが出来ていませんでしたので、今日からの出張が少々不安です。

今回は、ポーランド版が出来上がりましたので、その出版記念セミナーのためまずワルシャワに行きます。そしてその後始めてルーマニアに参ります。現地のヨガ自然療法団体からのお招きで、ブカレストで2回ほどセミナーがあります。さらにその後はイタリアのモンティカティー二・ティメー市という温泉療法の町主催の国際会議「水と文化」に出席のためにイタリアへ。それからまたハンガリーに逆戻りで、2回のセミナーと水への祈りセレモニーに出席し、リヒテンシュタインへ行く事になっています。リヒテンシュタインでは、尾竹君と佐藤君が先に行っていて、ヨーロッパでの仕事が全開となっているはずですから楽しみです。そこでまたブリジッタさんたちにも会う予定です。さてそれが済んだら、何とフランクフルトからロサンゼルスに飛びます。そこではもう息子の事務所が開いているので、事務所開きの小パーティーをやり、皆さんにご協力をお願いする予定です。そしてミランダさんやシンシアさんたちとも例の本の出版のための打ち合わせを現地で行い、10月31日に帰国と言う、またまたクレージーかつ生産的かつミッショナリー的な3週間が始まります。

では皆さん行って参ります。


ほんとに久しぶりに、私が大変お世話になっていて、兄貴分として慕っている高知の永野社長が来てくれました。この方のことは私の過去の本の中にも何回か出てきています。あの雲消しゲームをアリゾナ州セドナで僕に教えてくれた人です。

その永野社長は、このたび長いこと勤められていた入交石油の社長を無事退任されました(いりまじりという面白い名前は、高知で有名な財閥の名前で永野さんのお母さんがその直系でした)。それを聞いた僕が、1ヶ月前に電話して東京に来る折があったら、是非寄ってくださいと頼んでいて、今日がその日だったのです。

私が、永野社長に会いたかったのは、久しぶりと言うこともありましたが、例のNPOのお話をして、賛成して頂けるなら、その理事に就任していただきたかったからです。このことはこの“WATER FOR LIFE FOUNDATION”の構想を持った最初の時から思っていました。長いこと石油屋さんをやっていた方に加わっていただくことは、とても意味のあることだと思っていましたし、日本が世界に向けて発信しようというこの事業、ことたまの国四国からの重鎮参加は、必須項目のようにさえ、思っていたのです(四国のことたま説…「こうち」、「とくしま」、「たかまつ」、「まつやま」と県庁所在地の名前の最初をあわせると、「ことたま」となる。高知はその最初…坂本龍馬。さらに、金比羅山の本当の意味…ことばひらくやま。また剣山伝説、阿波踊り(ヤハウエ伝説)など私にとって四国は大事な欠かせないところ)。

私の構想についてはすでに会報などでご理解をいただいていた永野社長は、あっさりと、気持ちよく私の申し出を受けてくれました。これでこの事業の先行き間違いなし、と私は今確信しています。


■ 2004年10月7日(木) マレーシアからのお客様

数ヶ月ほど前からコンタクトのあった、マレーシアで健康関連会社を経営されている社長さん一行5名が、来社されました。私に会うという目的だけで、わざわざ5名の方が日本に来たということです。


マレーシアからのお客様とともに

マレーシアという国は、親日派で世界一高いツインタワーがあるという程度の知識しか持っていませんでしたが、2時間ほどの彼らとの対話で、人口は2500万人で、そのうち60パーセントがイスラム教徒であることを知り、とたんに興味が湧いてきました。しかも彼らは新しい政府とも通じていて、私を来年の1月後半に行われる国のイベントに招きたい、首相や各国要人も来るので紹介したい、というありがたいお誘いでした。

私はかねがねイスラム圏内に行きたいと思っていました。これだけ世界を回っていながら、実はまだそこを一度も訪れたことがないのです。平和の使者を自認するものとしては、その地を無視することは出来ません。彼らの前での私のメッセージはどう写るのか? 早く行かなければと思っていた矢先でした。

ですから二つ返事でこのご招待をお受けしました。来年1月20日に行く事になりました。で、早速イスラム談義が始まりました。ザムザムの水のことなどを話しているうちに、私はあることを思い出しました。それは3年前のことでした。

3年前、フランスのアルザス地方の私の滞在先のホテルに、ある青年が訪ねてきました。そして私にファイルに入った書類を渡しながら言いました。“この書類には、イスラムの神の名99が入っています。私はこれをあなたに渡すように、アラーの神から指示を受けました。ただ渡すだけでよい、後はあなたが判断するだろうから、との事でした。”私はただ狐につままれた様な顔をしてそれを受け取りました。“これはどういう事だろうか? ま、いずれわかる時がくるだろう。”と思って、結局それは預かり放しになっていました。

私はその話を彼らにして、アラーの神の99の名前がアラビア語で書いてある紙を持ってきて彼らに見せました。そうしたら社長さんが“今ここで、この神々の歌を歌ってそれをジャスミンの入った水に聴かせてみましょう”といい、アラビア語の出来る青年に命じて、早速その歌を歌わせたのです。なかなか音楽的にしっかりと構成された良い歌でした。結晶が撮影出来るかどうか分かりませんが、やってみるつもりです。


水に対して、アラーの神の99の名前の歌を歌う青年。


アラーの神の99の名前。

よし、この99の言葉の文字見せにすぐに取り掛かろう、そして出来たものをいくつかマレーシアで皆さんにお見せしよう、と思いながら彼らと来年の再会を約し別れました。

翌日、レバノンの出版社からメールが入り、アラビア語圏内20カ国を対象にして、「水からの伝言」の出版許可の要請が入りました。私は99の神様のご利益に鳥肌が立つ思いをしながら、もちろんこれに対して“YES”のキーを叩いたのでした。


午前中、サンフランシスコの精神世界系の雑誌「マウント・シャスタ」さんからの電話インタビューがありました。通訳の方がとてもよく理解されている方でしたので、話が弾み何と1時間半ほどのロングインタビューとなってしまいました。

午後からは役員会です。私どもの会社は9月末決算ですので、何かと打ち合わせ事項が多く、あっという間に時間が過ぎてしまい、私は新しい本を出すための出版社との打ち合わせのため中座させて貰いました。どうしてもマネージメントの方がおろそかになってしまいます。

今度の本は、青春出版社という中堅の出版社から出る予定で、テーマは「人を元気にする言葉」で、何とか11月末のイベントまでに間に合わせたいのですが、どうなりますでしょうか、まあ当然のことながら僕しだいです。

それが終わって、6時からソアーズさんの千葉社長、山口副社長ら3名が来社されました。11月のイベントの件の打ち合わせですが、それは食事を挟んで、9時ごろまで続きました。アーいそがし、忙しい。

でもどんなに忙しくても、心までは亡くさないぞ。


■ 2004年10月5日(火) 多摩パルテノンにて

昨晩は懇親会に出席したので、京都泊まりとなりました。初めて京都グランピアというホテルに泊まったのですが、これは明らかに設計ミスのホテルだと思いました。まるで迷宮のようで、足の不自由なお年寄りには不自由なホテルです。お部屋に行くまでやたら歩かせられるのです。

ところがそれを補うに余りあるものがありました。従業員の気配りがとても心憎いのです。JRさんの経営なのですが、とても良い波動の社員さんばかりで、多少の設計ミスも、帳消しになったように思います。この分では、民営化された郵便局の上にもホテルが建つでしょうが、それもとても楽しみになってきました。

さて、10時半頃の新幹線に乗り、東京駅に着いたのは1時を少し回っていました。プラットホームには研究所の木津君が待っていました。多摩パルテノンで、結晶写真展が今日から始まり、私は3時から1時間ほどスピーチをすることになっていたのです。

しかも、2時半には文学座の白鳥さんが現地でお待ちになっているということです。白鳥さんはストーンエイジというシナリオを書き上げ、それを映画化するということで、半年前から接触があり、今日はそのシナリオが正式に完成したということで、プロデューサーをわざわざ多摩まで連れてきて、ご紹介してくれたのです。何でそんなことになったかというと、この映画の基本的な概念がいわゆる波動で、私は以前から顧問的な役割を依頼されていたのです。来年2月がクランクインで、半年ぐらいで完成させる予定との事。アメリカでも日本でも、いよいよ映像舞台が波動を取り上げ始めたわけです。

さて、今日は1時間予定していた私の話を、30分で切り上げ、QアンドAの時間を設けました。その中で、とても感動的な話がありましたので、ここにご紹介させていただきます。このようなことがあるから私は超人的なスケジュールを何とかこなしていけるのでしょうね。Aさん、素敵なお便りをありがとう。

*****

 日 付:2004年 10月9日土曜日, 18:27:52
 差出人:A
 題 名:江本先生こんにちわ。

先日の多摩センターでの講演に行ったAと申します。今年4月、母が急性骨髄性白血病で入院している当時、愛と感謝の波動入り「お水さんありがとう」に大変お世話になりました。

質問コーナーでお礼の報告をするつもりだったのですが、抗ガン剤の副作用で死にかけ、病院ではこれ以上やる事がないと完全に医学に見放されていたあの頃を思い出し、胸が詰まって言葉になりませんでした。

抗ガン剤は幸いにも3日半ほどで中止されましたが、副作用からの脱却が大変でした。母はクリーンルームにいたので、一切の生物禁止、体力的にも水以外は飲めない状態でした。

「お水さんありがとう」と、同時にはじめた爪もみ療法とリンパマッサージのせいか母は3日間38度7分の熱を出しましたが、見る見るうちに元気になりました。今思うと、体が毒出しをしてくれていたのですね。看護婦さんの中に「お水さんありがとう」を知っている人がいて、飲んでみたいという申し出もありました。

今、母はすっかりというわけには行きませんが、普通に生活できるくらい回復しています。病気は持病として、自分の体の一部なんだから仲良く付き合っていこうと決めています。今では母娘を近づけてくれた病気さんを愛し、感謝しています。

病気さんありがとう。そしてその基礎を教えて下さった江本先生にありがとう。母の血、あのボロボロに変形してしまった血を、愛と感謝の波動が、結晶すらできない水を美しく替えていくように、美しく優しく、浄化してくれたのですね。母はあれ以来、自然療法一筋です。「お水さんありがとう」と、代替保管療法・生薬中心で養生しています。

わたしは当時、本当に何も知りませんでした。「お水さんありがとう」を注文した際も失礼な発言をしてしまい、後になってものすごく後悔し、いつの日か江本さんと会社の方に謝り、お礼をしたかったのです。

多摩センター会場で、お会いできて本当に嬉しかったです。ほんのちょっとでしたが、なぜかタイミングが合い、講演後、駅までの距離をご一緒する事ができました。全く予想外の事でしたが、思いが具現化…したのかな?^^。

今、外は暴風雨、嵐が吹き荒れていますが、雨さんにありがとう。氾濫する川、海にも、「お水さんありがとう」と言葉をかけています。

地球さんがこれ以上悲鳴をあげなくていい世界を作るため、わたしもお役に立ちたいです。絵描きなのできっとやること、あると思います。

一方的になってしまいましたが、読んでくださりありがとうございました。映画、楽しみにしています! 地球の為、宇宙の為、平和の為、世の中の気付きがどんどん進みますようご尽力ください。江本さんすごいです!応援しています。

最大のHUGを☆


■ 2004年10月4日(月) 京都でエバメール代理店大会講演

エバメールという化粧品を出している飯野社長とは、なぜか最初にお会いした時から波長が合いました。年は僕より確か6つぐらい上のはずですが、まずお若く感じる、そしてなんともいえない安心感を覚えるのです。そのせいでしょうか、会社の業績はうなぎのぼり。3年前に名古屋での代理店大会でも講師をさせていただいたのですが、その時は確か200名ほどの代理店の方が出席されていたのに対して、今回は何と400名以上の方の出席です。北は北海道、南は沖縄から大変波動の良い人たちが集まっておられました。

京都駅の上にある一流ホテル・グランピアのメイン宴会場を独占して、料理の内容からなど色々な事を勝手に考え、詮索すると(失礼!)、相当な経費がかかっていると思われますが、飯野社長と二人の息子さんはいつも変わらぬ、謙虚な波動です。

不景気といわれている、この世の中。何でなんだろうと、飯野社長に聞きました。曰く、エバメールのエバは、船井先生が言われているエゴからエバへのエバで、すべてこの思想で事を運んでいますとの事。来年10月には埼玉にかなり大きな工場も開設されるとのことです。

さらに化粧品を作るに際して、水をとても大事にされているようです。長野の佐藤さんという、この道では有名な方の生体エネルギー水を利用するようになってから、業績は上がる一方。やはり、エゴをなくして、良い水に全てを委ねる心が、これからの新しい成功する企業イメージのようです。


■ 2004年10月3日(日) 宮崎雅敬さんのこと

実は10月1日に日本に帰ってきてすぐに、秘書の市瀬さんから、十字の漢方の宮崎雅敬さんが亡くなられたという訃報を見せられました。“えっ!!そんな馬鹿な!!”と驚き、しばし絶句する私でした。宮崎さんとは、つい1ヶ月前の8月29日、名古屋ガスホールでお会いしたばかりだったからです。

宮崎さんは元々が薬剤師で、かつ東洋医学の求道者でもありました。そしてOリングテストの達人で、30代後半にして名古屋を中心に様々な研究活動の中心となって活躍されていました。私とは今から12年ぐらい前に彼の著書「続・気の養生」という本の中で対談をして以来、年に1回ぐらいいろいろな会合でお会いしていました。

しかし最近になって宮崎さんが何かと私に相談をするようになり、東京や名古屋でよくお会いするようになりました。6月には意識波動学会を立派に成功され、次は来年の名古屋万博でのイベントだと、張り切っておられました。8月の末に名古屋でお会いした時も、その件でのご相談でした。

彼には孝太郎くんというやはり鍼灸師の元気な長男がいて、最近では二人で日本中を歩いていました。今思えばまるでこうなることを予見して、息子にいろいろなことを教えておこう、という感じでした。去年の夏の暑中見舞いの葉書には二人が佐賀県のある町で、大きな楠の前で写っていて、私にはその写真が妙に印象に残り、後日その木の写真を見せた結晶写真を撮りました。水伝3に載っているあの複雑に入り組んだ結晶写真がそれです。

今日そのお通夜が名古屋覚王山の日泰寺で行われ、私はそれに参列しました。そして何と宮崎さんがまだ52歳であったことを知りました。ちょっと若すぎます。息子さんの話では脳卒中であったということですが、霊的な治療を忌避しなかったどころか、私の印象ではむしろ積極的であったように思います。私にも体験のあることですが、霊は実際に存在します。ご自分の免疫力が落ちている時の霊的治療はとても危険です。ゆめゆめ油断されぬよう、カウンセリングを業とされる方はご注意下さい。

いずれにしましても本当に惜しい方を亡くしたと思います。心よりお悔やみ申し上げます。


■ 2004年10月2日(土) 名古屋ビーワン・セミナー

昨日の午後3時過ぎに成田に着き、迎えに来てくれた山田君の運転でそのまま浦安の家を通り過ぎて、柳橋の会社に行きました。そして5時から全社員を集めて帰朝報告会です。当初はまっすぐ家に帰ろうかと思ったのですが、考えてみたら、土曜日は名古屋、月曜日は京都でセミナーが、そして火曜日には多摩市での写真展オープニング・レセプションが予定されていましたから、水曜日まで出社できません。もちろん疲れてはいたのですが、会社に出たわけです。

誰がこんな殺人的なスケジュールを組むんだ、と大きな声を出して怒鳴りたくなるような気になりましたが、よくよく考えてみると誰のせいでもない。皆は心配して余り過密スケジュールにならないよう配慮しているのですが、当人の私が“かまわない、かまわない”と勝手に自分で自分を忙しくさせているわけです。そして今は、もうこんなスケジュールは取らないぞと思うのですが、またセミナーの依頼やアポが入ってくると、それを断れません。悲しい貧乏人のさがが私にはあるようです。

そんなわけで今日は、おなじみのビーワン・セミナーのため妻と名古屋に向かいました。普段は名古屋だけだと妻は付いてこないのですが、翌々日に京都でのセミナーが予定されていましたので付いてきてくれました。本当に助かります。

ビーワングループとはある特殊な水を使ってシャンプーやマッサージをする技術を展開している理美容グループのことですが、ますます成長していってもう8000店の組織になったそうです。(このことについては昨年12月13日の日記をご覧下さい。) つい先だっては沖縄に招かれ、来月は札幌にも招かれていて、すでに全国で10箇所近くのビーワン・セミナーに招かれています。自分で言うのもなんですが、私がこれは良い技術だなと思い応援する技術は、最近どんどん企業として成長されています。月曜日に行く京都でのエバメールさんもそのひとつです。


::::::::::Copyright(C)2003 Masaru Emoto All Rights Reserved::::::::::