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■ 2004年3月27日(土)〜29日(月) オランダ・アムステルダム…休日

 3月15日から26日までの13日間の超過密スケジュール、さすがに疲れました。でも今日から3日間、娘と孫そして先に行っている妻が待つアムステルダムで休暇です(娘のことについては2003年9月2日付の日記、孫の写真<当時9ヶ月>については同11月18日付の日記をご参照下さい)。
 そして、私はすっかり癒されました。ご覧下さい、下の写真を!!

そうです。孫の陸玖(りく)は立派に歩けるようになったのです。もう、余計な説明は不要でしょう。というわけで、日本に帰る3月30日まで、日記はお休みさせていただきます。


■ 2004年3月25日(木) スペイン・バルセロナ
  昨夜は結局寝たのは3時半ごろでした。でも今朝はきちんと8時に起きて一人で朝食をとりました。(尾竹君は朝食より睡眠をとりました。・・・昔の僕ならもちろん同じだったでしょう。でも60になってから、どうしても朝、目が覚めてしまうのです。)10時には出版社の人がテレビ取材チームを連れてきて活動開始です。地元のテレビ局とマドリードからもビデオカメラを持ったチームが取材に来て、結局1時ごろまでそれは続きました。

  ホテルのそばの海鮮レストランでおいしい昼食を頂きましたが、やはりこうやって海外ツアーが長いと一番楽しみなのは食事です。スペインの場合その味付けは日本人にとって違和感のあるものではなく、また海に面している国のため魚介類が大変おいしく、食事には困りません。前回もそうでしたが今回も一度も日本レストランには行く必要を感じませんでした。日本とスペインは、僕が体験した限りでは天候も良く似ています。ひょっとしたらFOOD(たべもの)は“風土”から来ているのかもしれません。
  さて食事が終わったあとがまた大変でした。ホテルには5組の取材陣が次から次へと押し寄せて、次から次へとインタビューしてゆきます。当然同じ質問が多いのですが、通訳の人も退屈させてはいけないと思い、同じ答えを違った引用などを利用して答えるようにしています。各媒体も自分のところだけの記事を書きたいはずですから。ですから僕自身としては、“また同じ質問だ、いやになっちゃうな”とは思いません。だけど工夫をしなければならない分だけ疲れます。
 5時からは10人ぐらいの人と車座になって座談会をしました。本を読んで感動してくれた一般読者の方々を出版社が選んで、自由に質問を頂くという趣向でした。このような時は自然体になれて思わぬ発想が浮かんでくるもので、大変参考になります。早速日本に帰ってこのスタイルでの会を開くことに決めました。(参照トップページ

 7時半から近くのデパートのイベント会場でセミナーです。時間ちょうどに着いたら人の山が待ち受けていました。もっとも絶対数は150人ぐらいだったのですが、80席ぐらいしかないところでしたので、ここでも立ち見、座り見の人が半分もいて、たくさんの人が入れなかったようです。
 9時過ぎにセミナーを終え、そのあと30分間のサイン会を済ますとさすがにくたくたです。でも10時過ぎから始まった関係者10人以上のお別れディナーで、少しばかりのワインを飲んでご機嫌になって、頼まれもしないのにキサス・キサスやカチ―トなど、40年近く前に日本で流行ったスペイン語の歌を怪しい発音で歌い始めた僕がいました。いつまでたってもこのパターンは変わりそうにもありません。
  このスペインのセミナーツアーでも、充分な手ごたえを感じました。マドリードでの痛ましいテロ事件があったせいでもありましょうが、人々は何が本当のことなのかを求めている、ということを、改めてどこの国の人からも感じたのでした。


スペインの新聞記事


■ 2004年3月24日(水) スペイン・ジローナ
 リヒテンシュタインからチューリッヒ空港までは距離にして約130キロ、車で約1時間半の距離で、今後はやはりチューリッヒ空港が基点となります。ラスムスの車で私と妻と尾竹常務はチューリッヒ空港に着き、それぞれの目的地に赴きました。妻はオランダ航空で娘と孫が待っているアムステルダムへ、尾竹常務はルフトハンザ航空でミュンヘン経由バルセロナへ(安い切符利用のため)、私はリベリア航空で直接バルセロナへ。
 つまり今日から3日間私は妻と離れて尾竹君と情熱の国スペイン旅行に行くわけです。久しぶりの男だけの二人旅、ちょっと楽しみだなと思っていたらそれは甘かった。それこそ殺人的なスケジュールが私たちを待っていました。
 夜遅くバルセロナ入りした私たちは、翌25日の10時にジローナに向けて出発しました。ジローナはバルセロナから北へ100キロほどに行ったところにある古都で、昨年の11月にバルセロナに来たときにお会いしたマリアローズさんとの約束を果たすために予定に組み入れていたものです。(2003年11月24日の日記をお読みください。)
 素晴らしいお天気に恵まれ、遠くにピレネー山脈を仰ぎながら、車はのどかな農業地帯のなかを快調に走ってゆきました。そして11時半にジローネに着いたそのあと、すさまじいスケジュールが待っていたのです。
 まず、12時半から地元のジローナ大学での講演会です。大学関係者と代替医療関係者が60名ほど出席をしてくれました。通訳は前回のときにもお世話になった三重県出身の留学生卒業者の古田君で、哲学科出身なものだから、なかなか専門用語も知っていて上手な通訳をしてくれました。

 それが終わって2時過ぎから、市役所から二人の人と大学の先生、マリアローズさんとわれわれとで遅い昼食をとりました。聞いてみれば今回のジローナでの企画はすべてマリアローズさんがしてくれたようで、もう80歳になるというのに、町の実力者らしく皆さんから大変尊敬されているような感じを受けました。
  昼食が終わってマリアローズさんの家へ歩いていったのですが、その町並みがまことに美しく、しばし足を止めて尾竹君と一緒に記念撮影です。

 そして彼女の家に着くと、団体で人が待っていました。その中には昨年お会いした日本語の出来る画家マルタさんとそのお友達の華道の先生あずささんがいて私たちを元気な日本語で迎えてくれました。

さあそのあとが大変です。7時30分からの市民会館のようなところでの講演会までの間にいったい何組の取材や面談があったことでしょう。またまた入りきれないほどの人が来てくれた講演会を終えて、夕食を関係者と済ませ、バルセロナのホテルに戻ったのは、もう深夜の2時を回ってしまっていたのです。(続く)


■ 2004年3月22日(月) Hado Life ヨーロッパ設立される
  今回のヨーロッパ行きの最大の目的は実はこの件でした。ヨーロッパの中央にある小国リヒテンシュタインに新しい会社を設立し、そこに研究所を設けようという計画がかねてから進行していて、今日はその事務所開きの日に予定していたのです。

 最初はウイーンで研究所を設けたいと思っていたのですが、現地責任者であるラスムス君の意見で、いろいろと小回りの効くリヒテンシュタインになったのです。ガウプ・ラスムス君とはもう3年の付き合いで、最初は彼のお父さんガウプ氏に紹介されました。当時はウイーン大学の専科で水の勉強をしていました。
  お父さんのガウプ氏は僕がヨーロッパのセミナーを始めたころからの理解者で、1,2回彼のオーガナイズでオーストリアでセミナーをやったこともあります。しかしラスムス君が日本に行って結晶写真の勉強をしたいと言い出したのはお父さんの考えではなく、彼自身の強い要望によるものでした。
  結果的に彼は2回東京のIHMの研究所で研修し、撮影技術を学びました。そして途中私のほうの都合で若干時期は遅れたものの今回ようやく開設の運びとなったものです。
 もちろん、この背景には私がどうしてもヨーロッパに研究所を出したいという夢がありました。実は2年前スイス・チューリッヒにワイズクリスタルというNPO方式の研究所を出したのですが、私の力不足で途中で挫折してしまいました。今度はその体験を生かしての再チャレンジです。
  リヒテンシュタインは人口わずか3万人あまりの小さな国で日本の小豆島くらいの面積です。しかし小さいといっても立派な独立国です。私はこの国に入った最初の日にこの国の皇太子殿下にご挨拶し、事業の協力を依頼し、それは好感を持って受け入れられました。ガウプ家はオーストリアに住んでいますが、曾祖父の代からこの国の王室とお付き合いがあり、その関係でお会いすることが出来たのです。


リヒテンシュタインの皇太子殿下とともに

 社名は最初は“IHMヨーロッパ”とつけたかったのですが、類似商号があるため受け入れられず、“HADO LIFE ヨーロッパ”としました。いずれにしても、波動や結晶写真を世界的に普及してゆきたいという私の強い願いが、ようやく具体的にその第1歩を踏み出したということになります。当日はドイツからコンラッドさん、スイスからジョルジョさん、オーストリアからブルギさんという強力なメンバーも集まってくれての事務所開きとなりました。


Hado Life ヨーロッパ・事務所開き


左から江本勝、ブルギ・セドラックさん、コンラッド・ハルビックさん


左から、ゲオルグ・ガウプさん、尾竹明宏君、
ラスムス・ガウプ・ベルグハウゼン君


Hado Life ヨーロッパの事務所兼研究室

 これからこの研究所でどんな写真が撮られてゆくのか、皆さんご期待ください。


■ 2004年3月20日(土) セルビア
  セルビアは元ユーゴスロバキアと称し、内戦が相次ぎ、そのためNATO軍によって1999年、わずか5年前に爆撃を受けるなど、また私がこの国に入る直前にもコソボ自治州で何か騒ぎがあったようだし(実はまだ何があったか知らない)、現在でもまだまだ政情不安定な国です。
 そのセルビアで「水からの伝言」のセルビア語版が出版されたのです。もう2ヶ月前のことでした。今回この地区を訪れてみようと思ったのは、このセルビア語版が私のところに送られてきたからだといっても良いでしょう。しかしまさか、自分が来ているそのころにどんぱち騒ぎがあるとは、思いもしませんでした。
  空港には出版社を経営する4人の若者が来てくれました。ソ―ニャさんという女性がわれわれの本の窓口で、後の3人と一緒に4人で共同経営をしているような感じです。ちなみにそのソーニャさんも日本に国際友好協会の関係で日本に1年ほど留学をしていたそうです。


セルビアで出会った4人の若者
背後に流れているのがダニューブ川、
川向こうのビルには生々しい爆撃の跡があった。

  空港から市内に入る通りの至る所に、空爆のあとがまだ生々しく残っており、そのときの状況を彼らから説明を受けたのですが、人事とは思えず胸が強く痛みました。それは最近の世界情勢にただならぬものを感じている私に対して、そして世界平和を求めて世界行脚をしている私に対して、まるでボクシングのカウンターパンチのようにダメージを与えるかのようでした。
  しかし、小さな会場で行ったセミナーにはそれこそ、この国を代表するかのような文化人がたくさん出席されて、部屋は熱気で満々、立ち見、座り見の人で、入りきれずに帰る人もたくさんいたようであったのですが、それだけにいつもの何倍も気合の入った話の調子となり、良いお話が出来たと思います。途中で席を立たれる人も誰もなく、質疑応答を含めると実に約2時間半立ちはなしの人もいたのです。
 ですから次回に来るときはやはりいろいろな面で余裕を持った段取りをしなければいけないと反省をした次第です。しかし4人の若者は清々しく強く、勇気がある人たちでした。きっと明日のこの国を力強く引っ張って行ってくれる事でしょう。私もちょくちょく来て応援をしようと思いました。


■ 2004年3月18日(木) スロベニア
 スロベニアは人口約200万人、面積はちょうど日本の四国と同じぐらいの小国です。1991年に長年の夢が実って旧ユーゴスラビアから独立し、初めて世界地図にその名を記しました。首都はリュブリャーナといい、私もそこに降り立ちました。
  今回の旅はどこも短期日であるが故に、仕事がほとんどで町をゆっくり見る暇もありませんでしたが、本来は多くの観光客が訪れる自然と芸術が調和した美しい古都だということです。
  出版社の担当の若い女性と、日本に1年ほどの留学経験を持つカロリーヌさんと言う通訳の方が空港に迎えに来てくれました。余談になりますがワルシャワでも、また次のセルビアでもそうだったのですが、国際友好協会のお世話による短期(1〜2年)留学生が日本を訪れており、その彼らが日本と自国とを結ぶ、何らかの役割を担ってくれています。なかなか良いシステムだと感じ入った次第です。
  スロベニアでの日程は、記者会見、テレビや雑誌のインタビューが5件、そしてセミナーが1回、地元の小団体と泉に対して祈るセレモニー1回と、大変にきつい日程だったのですが、皆さんがとても熱心で厚く私に対して接してくれましたので、疲労を感じる暇もなく、あっという間に2日間が過ぎました。


スロベニアでのセミナー


2003年7月25日にイスラエル・ガリラヤ湖に来てくれた
アレス君がオーガナイズしてくれた水への祈り

  そしてここでも、「水からの伝言」のスロベニア語版が直前に出版されていてセミナー会場などで始めて紹介されたのです。特に印象的であったのは、地元の老科学者のヤムセック先生(私のスロベニア版の本の前書きを書いてくれた人)が、“自分は今78歳になる老いぼれだが、まだ科学者としての自覚を持っている。昔はジュネーブの科学アカデミーの要職を30年近く勤めていた。でもそれはちっとも楽しくなく、幸せではなかった。しかし、あなたの本に会えて、しかもそのスロベニア語の前書きを書かせてもらえて、どんなにか嬉しく幸せなことだったか、感謝しますよ”と言われた時でした。思わず涙ぐんでしまったほどです。


向かって左がセムヤック先生


■ 2004年3月17日(水) ハンガリー
  もちろん始めて降り立つブダペスト空港、そこには4人の人が待っててくれました。通訳兼ガイドの富永美知代さんとその夫のイルハンさん。そして、「水からの伝言」ハンガリー語版の出版社の社長ヤカブさん夫妻です。


英雄広場にて、新しい仲間と
右が富永さん夫妻 左がヤカブさん夫妻

 この富永さん、最初は音楽留学でこの国にやってこられたそうです。そして、ご主人も音楽家。なんでも下の2人の男の子は双子だとか。13年ほど前に声楽の勉強にこられたこの地で、優しいハンサムな同好の志と恋に落ち、3人の子供に恵まれ、幸せな生活を送られている。よくあるパターンなんでしょうが、日本とハンガリーの友好のために、とても素晴らしいカップルのように思いました。
 驚いたことにハンガリー版の本はもう出来ていました。なんとちょうど昨日刷上がったということです。おそらく僕の訪ハンに間に合うよう大急ぎで作ったのでしょう。確か2ヶ月ほど前に契約したばかりだったはずですが。そしてその出来栄えもなかなかな物でした。
 ハンガリーに来て始めて知ったことですが、ハンガリーはアジア系の民族が元になっているということでした。そもそもハンガリーのハンはフン族のことを指すそうで、蒙古人とも関係があるようです。ですから日本人ともとても波長が合うということです。
 わずか1日の滞在でしたが、翌日の早朝にはヤカブさんと一緒にホテルの中の温泉を楽しみ、文字どおり裸の付き合いをするなど、なかなか中身の濃い訪問となりました。それを演出してくださった富永美知代さんに感謝です。ありがとうございました。


■ 2004年3月16日(火) ポーランド
  昨日フランクフルトで乗り継いでポーランドワルシャワ空港に着いたのは、もう夜の11時を回ったころでした。さすがに成田から計18時間の移動に要するエネルギー消費は疲れます。でも空港に迎えに来てくれていた、アダムさんの笑顔を見て、こちらも、すぐに元気になります。
  アダムさんは、「水からの伝言」のポーランド語版の出版契約を交わした人で、多才なポーランド人です。本業は服飾関係で、ワルシャワでその関係のお店を5,6店経営され、従業員も150人ほどいる立派な経営者ですが、音楽関係のお仕事も手がけられ、作曲、演奏、歌などもされて、CDも何枚か出されているのです。そして、最近はパウロ・コエーリョさんと親しくなり、彼の名作“アルケミスト”のミュージカル化のプロデュース権を得て、その準備のために忙しく世界を飛び回っていらっしゃいます。

半年ほど前彼は日本に来たとき、結晶写真をデザインした“アダム・ジー”というTシャツの企画のことを私に熱く話していたのですが、今回そのサンプルが出来上がっていました。スパンコール調の高級感溢れるTシャツで何とかして世界中で商品化したいと夢を持っておられるようです。このように結晶写真をご自分の商品のデザインに採用されたいと考えてくれる方がヨーロッパには他にもかなり多く、地元の日本と比べると芸術としての価値を評価してくれる点においても大きな差を感じます。これはいったいどう云うことなのでしょうか。

 ポーランド語版は10月に出版予定で、私はまたその出版時に来ることを約し1日ちょっとのポーランド訪問を終えました。


■ 2004年3月15日(月) 東ヨーロッパへの旅立ち

 本日12時25分の便でポーランドのワルシャワに向かいます。そしてその後、ハンガリー、スロベニア、セルビア、リヒテンシュタイン、スペインと回り、30日に帰国です。リヒテンシュタインを除いてはいずれもそれぞれの国で「水伝」が出版されたり、準備中の国でセミナーをやったり、その打ち合わせのための旅です。
 東ヨーロッパは今回初めての訪問です。ご存知のように歴史的に悲しい体験を持つ国が多いのですが、それだけに学び取ることも多い訪問になりそうです。また、つい先日大きなテロ事件があったばかりのスペインでは、首都のマドリッドではなく、バルセロナとその郊外にあるジローナと言うところに行くのですが、テロ被害にあった直後の国民の様子などを当ホームページでお伝えしたいと思います。
 ただ非常にタイトなスケジュールなので毎日のようにご報告できるかどうかわかりませんので、その節はご容赦願います。
 リヒテンシュタインには楽しい前向きの用事のために行きます。この国は小豆島ぐらいの大きさで、人口も3万人余りととても小さな国ですが、国連にも加盟している立派な1つの独立国です。すでにこの国の皇太子殿下に会う予定もセットされているのですが、果たしてこの国に何をしに行くのか、3月24日ごろの日記をお楽しみにしてください。
 では皆さん行ってまいります。


■ 2004年3月10日(水) 池袋ジュンク堂でのセミナー

 昨日夕方から池袋ジュンク堂で小セミナーがありました。30名ほどの方が来て下さり熱心に聴いてくれました。実は昨日は朝から会議が重なり、かなり疲れていて、最後までしっかりお話しが出来るかなと不安であったのですが、1度話し始めたら、やはり皆さんのエネルギーを頂きながら結局最後まで立ちっぱなしで話を続けることが出来ました。いつもながら私にとってセミナーは、良いエネルギー源です。来ていただいた方、有難うございました。


(やっぱりちょっと疲れていますね…)

 さて昨日は最初から質疑応答が予定されていましたので、話を少し速めに切り上げて皆さんから質問を受けました。なかなか良い質問が続き、私としても大変参考になりました。海外でのセミナーは主催者が必ずと言ってよいほどQアンドAの時間をとってくれるのですが、国内では私に遠慮してかどうか、その時間が無いケースが多いのです。
  と言うよりも、おそらく国民性の違いなのかもしれません。分からないところや、疑問点についてはその場で聞くという習慣が、海外の方々にはあるように思います。ですから、そのような場を持たないと後で主催者に苦情が来るのでしょう。日本人は奥ゆかしいからとよく言いますが、それはセミナーや説明会、公聴会などの時にはあまり良くない習慣であると私は思います。このような時にこそ質問や発言をすることによって社会参加というものが出来るようになるのではないかと思います。
  そこで、これからの私のセミナーは出来るだけ質疑応答の時間を設けようと思います。そして出来れば一度質疑応答だけのセミナーをやってみたいとも思っています。5月末ぐらいに私どもの研修ルームで行おうと思いますので、その節はたくさんの質問や意見を持ってお出かけください。私の勉強のためにも必要なことですので、私が返答に窮するようなもの歓迎です。そう、私を参らせた質問提供者には“参った賞”として粗品を用意しておきましょう。

 (この企画が具体的に実現する運びとなりました。トップページをご覧ください)


■ 2004年3月8日(月) 新潟能生セミナー

6日の土曜日から新潟に出かけました。能生という町で健康道場を経営しておられる赤井さんという女性の方からのお招きでした。日曜日の午後2時からのセミナーでしたが、地図を調べたら交通の便が余りよくない所でしたので、念のために前の晩から出かけ、最寄の日本海に面した小さな温泉宿に泊まりました。
  翌朝目が覚めると、あたりがやけに明るくなっています。そして窓越しに外を見ると白銀の世界が広がっていました。昨夜一晩で10cmは積もったようです。アーやっぱり前の日から来てよかったなと思いながら朝食を済ませ、セミナーが行われる能生の町に出かけてゆきました。
  私たちが泊まったところは北越本線の“潟”というところで、そこから能生までは電車で1時間ほどの距離でした。直江津から先はほとんど海沿いの鉄路で、おりしも北越地方を襲っていた発達した低気圧のおかげで海は荒れ模様でした。冬の荒れた日本海、何年か前に同じような光景を見たことがありますが、なんとなく重たい気分になってくるものです。

電車が能生に近づくにつれて、雪の量が増えてゆきます。海はますます荒れ狂っている感じ。風も相当強く吹いていて、何となく“お酒は温めのほうがよい”という主題歌の、なんとかという映画の高倉健になったような気持ちで、“こんな所で、こんな天気でいったい何人お客様が来るのかなあ?”と能天気(?)の私もさすがに心配となってきました。
  ところが会場について吃驚です。出迎えてくれた赤井さんは赤いヤッケと赤い車、そしてとても元気で(靴下を履いていなかった!)超ポジティブな現代的な女性でした。さらに心配していた入りも次から次へと人が現れあっという間に150人以上の人で会場はほぼ一杯となったのです。中には泊りがけで佐渡島から来た歯科医さんもいましたし、新潟市や福井から来た人もいました。おまけに外国人の方が6人もお見えになっていました。聞けばカナダ、アメリカ、ニュージーランド、スコットランドなどから来て、英語の教師をしながら日本文化やヨガの勉強をしているとの事、失礼ながら“えー!?こんな町で?”と思いました。
  2時間に及んだ講演のあと、タバコを吸って休んでいた地元の猟師さんと思われる叔父さんに感想を聞いたところ、“いやあっという間に時間が経ってしまって、もっとお話を聞きたかったです。今夜から人生が変わりそうです。よい話をありがとうございました”と最大級のおほめ言葉を頂きました。
  その後行われた懇親会には外国人の方全員が出席してくださり、ほかの出席者の方も同じような感想を述べてくださって、私は高倉健さんから、すっかり今風弘法さんに変身していました。3月4、5日の福岡での経済人対象でのセミナーといい、今日の体験といい、とてもいい感じで私のセミナーは、しかるべき時の辻説法のように、着実にその足跡を残しているんだと感じられて、日本の将来にも明るい見通しを持つことが出来たのでした。


■ 2004年3月5日(金) 経済人を対象にしたセミナー2件

昨日4日の夕方、ホテル日航福岡で(社)福岡県中小企業経営者協会主催のセミナーが行われました。立派な会場に約150名を超える方がいらしてくれました。基本的には中小企業経営者の集いで、普段は90名前後の出席者ということだそうですから、だいぶ私の結晶の話も世間に広まってきたのだなと、水と波動のミッショナリーを自認する私としては、とても嬉しく思いました。

翌日の朝、同じホテルで今度は九州経済フォーラムの朝食会にも呼ばれて1時間ほどお話をさせていただく機会を頂きました。こちらのほうは、九電やJR九州、西部ガス、福岡銀行、地元の大学関係者などそうそうたる人たちの例会で、10分ほど時間を超過してしまったのですが、皆さん最後まで熱心に聞いてくれて、これまた話し終わった後、さわやかな充実感に恵まれました。
 今回強く思ったことは、九州の経済界の人は良くまとまっていて、勉強熱心だなということです。中小企業経営者協会の会長さんは小早川明徳さんとおっしゃって、なかなかの人物です。地元福岡に対する愛はとても強いものがあり、経済フォーラムの要人でもあるようです。多分地元の殿様の血を引いていらっしゃるのでしょう、だからこそあのようななんとも言えぬゆったりとした波動があり、この方を中心に良くまとまっているのではないかと思いました。今後の福岡はとても期待できるという感じです。


■ 2004年3月3日(水) アウエハント静子さん来社
 1日の日記にも書いたように今日はアウエハント静子さんが来社されました。ごらんのように小柄ではありますが、凄いエネルギーの持ち主で、私と一緒のときのセミナーでは舞台の上で飛んだり跳ねたりのパフォーマンスを見せてくれて、観客を喜ばせてくれます。丁度昨日(3月2日)が66歳のお誕生日だったそうですが、そんなお年には見えない可愛い方です。

 写真で彼女が持っている本は、オランダ語の本で“地球さん、愛してます”というタイトルの本です。著者はオランダの女王の妹さんで環境問題に生涯をかけておられる、エレーネ妃という方ですが、実はこの本に私が登場しています。彼女は世界の環境問題に関するキーマンを10人余り選んでその全員と対談し、その対話集を本にしたのです。私との対談は1年ほど前に私がオランダに行ったときに行われました。とっても素敵な波動を持ったチャーミングな方でした。ご覧のようにルパート・シェルドレイク先生も登場しており、他の先生方もすばらしい方ばかりで、そのような方と一緒に選ばれたことを、とても光栄に思っています。

さて、夕方私の家内と静子さんとで浅草橋の駅の近くの行きつけの料理屋“柳橋”に行ったところ、とんでもない偶然がありました。静子さんが懇意にしていらっしゃる名古屋のイーエム総合ネット宮澤敏夫社長に出くわしたのです。宮澤さんはEM技術をその産業面において広く日本中に普及した功労者で、したがって静子さんとはかなり前からのお知り合いです。しかし、名古屋の宮沢さんとなぜ浅草橋でお会いすることになったのでしょう。
 宮澤さんは、外国人の方や関係者の方7,8名とご一緒でした。ですからまったくの偶然なのです。ただ、静子さんは前々から私と彼とを引き合わせたかったと思っていたとの事です。彼女はご自分を評して“結びの役割”といつも言っていましたが、まさにそれを目の当たりに見たという感じでした。
 帰りがけに彼女は『水からの伝言 Vol. 3』を今度は22冊お買い求めいただき、また彼女の財布は空になってしまいました。これでこの本のベストセラーは保証されました。


■ 2004年3月1日(月) タイからのお客様
  今日タイからご夫婦のお客様がお見えになりました。てっきりタイ人ご夫妻かと思っていましたが、ご主人は見上げるような大男(写真)で、オランダ人の方でした。4年ほど前に結婚され今ではバンコックで小さな出版社をご夫婦で経営されているそうです。小さいといってもスタッフ7名、この4年間の間に20冊以上の本を出されているとのことですから、とてもがんばっている出版社だと思います。

  来社の目的はもちろん『水からの伝言』のタイ語版の出版と、タイでのセミナーの打ち合わせのためです。同席した妻が“『水からの伝言』のことはどちらで知ったのですか?”と聞きますと、“私はオランダでEMの会合にもよく出ていたのですが、そのEM仲間から本を見せてもらい、購入しました。”とご主人が答えました。私は思い当たることがあったので、彼に“アウエハント静子さんという日本人をご存知ですか?”と聞きましたら、“ええよく知っています”と答えられました。
  アウエハント静子さんはもう長らくオランダにお住まいの方で、EMの比嘉先生をヨーロッパにご紹介された方です。『水からの伝言』が1999年の6月に出版されたときに丁度日本に来ていて、この本のことをご友人の小澤医師(愛知県碧南市)より紹介され、とても感動されて、すぐに私のところにお見えになりました。(私より5つぐらい年上の方ですが、大変に行動力に溢れた方です)そして、なんと有り金全部はたいて77冊もその場で購入していただき、それをヨーロッパに持ち帰り、あちこちに配ってくれたのです。
  それがきっかけで、私の本はまずヨーロッパでブレイクしたわけで、その後彼女の通訳でいろいろな町でセミナーをしたという経緯があって、私にとっては恩人のようなものです。そのときの彼女が蒔いてくれた種が、こうやってタイで実るとは。世のなかにはこのように、いろいろな善意の種がいろいろな人によって、いろいろな形で、いろいろな地域で蒔かれているのでしょう。
  つまり、良いことをすればそれはタンポポの花の種のように必ずどこかの地面に着床し、その花を咲かせるのです。たとえ誰が見ていなくても。
  その静子さんが明日日本に来て、私と食事をすることになっています。これもまた共時性ですね。私はもちろんタイでの出版計画についての話をご報告し、久しぶりのお話に花を添える予定です。



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